週刊シネママガジンコラムWhat a Wonderful 映画人生!僕が映画に目覚めたきっかけ

第2回「僕が映画に目覚めたきっかけ」(連載5回) 先週号はこちら

12歳の頃、「ターミネーター」と「エイリアン2」を見て感動し、その2本の全シーンをマンガで再現したことがあります。これが僕の最初の映画体験といってもいいでしょう。
それから15歳になって「スター・ウォーズ」を見て、目ん玉が飛び出るほどの衝撃を受けました。あの時の興奮は今もしっかりと覚えています。凸凹ロボット・コンビC-3POとR2-D2の存在感、悪役ダースベーダーの息づかい、真っ白なプロテクターをした帝国軍の衣装デザイン、光る剣ライトセーバーのチャンバラ、ジョン・ウィリアムズのスケール感あるオーケストラ音楽、すべてが驚きでした。とくに、イマジネーションを刺激する砂漠のセット・デザインが強く印象に残っています。もともとゲーム好きだったので、すぐに感化されて、僕は「スター・ウォーズ」のボードゲームを作って遊んでいました。僕は「スター・ウォーズ」を「SF」として見ていても、「映画」としては意識してませんでした。あの頃は「スター・ウォーズ」が自分の生まれた年に作られた映画だなんて知るよしもありませんでした。後年その事実を知ったときには絶対に嘘だと思ってたくらいです。
今も僕が何よりもSF映画を好むのは、「スター・ウォーズ」の影響からです。

 

チャールズ・チャップリンでは、一番最初に「映画」を意識したのは何だったのでしょう? それはチャップリンでした。僕がチャップリン映画と出会ったのは小学校の頃に見た「街の灯」が最初ですが、その時の記憶がずっと鮮明に残っていて、「もう一度見たいなあ」と長年願っていました。16歳になってチャップリンの自伝を買いました(僕は本を読むのが苦手でこれを読むのに3年かかってしまいました)。それから、近所のレンタルビデオ店でチャップリンのいくつかの長編を見付けて、懐かしさにかられた僕は「黄金狂時代」など、色々見てみました。一気に惚れましたね。僕の大好きなドリフのコントを、チャップリンによって大昔にすでにやられていたことに感心しました。自伝を読むと、素顔の写真が映画の写真と全然違うところに奥深さを覚えました。ここから次第に映画に興味を持ち始めるのですが、それでもまだ頭の中はゲームのことでいっぱいで、僕はチャップリンのアドベンチャー・ゲームをパソコンでプログラムして作っていたのでした。でも最初に好きになった映画人ということで、チャップリンはのちのち、僕にとって永遠にナンバー1の存在となるのです。

 

かつてテレビゲームはカートリッジが主流でしたが、技術が発展し、いよいよCD-ROMに移行することになりました。そうなったことで、ゲームのキャラクターがついに「喋る」ようになったのです。ゲームの声はプロの声優が吹き込んでいましたが、そこから僕は声優に興味を持つようになりました。ちょうど同じ時期に「魔女の宅急便」を見て、キキ役とウルスラ役が一人の声優(高山みなみさん)が二役演じていることを知り、びっくりしました。僕はだんだんと声優にハマり始めて、放送しているアニメを片っ端から見るようになりました。それと同時に、夜9時台の吹き替えの洋画も欠かさず見るようになり、それがきっかけで、いつしか僕は洋画通になっていったのです。アニメから洋画の方に趣味が転向したのはラッキーでした。それにしても、僕の映画好きになるきっかけが声優だったなんて、おかしなものです。
映画が好きになってからはゲームから離れ、映画を見ることだけに専念しました。もっと映画のことについて知りたくて、始めて映画雑誌も買いました。「スクリーン」に始まり、後から「FLIX」も買うようになりました。この時1994年。その翌年がちょうど映画生誕100周年だったので、雑誌も各誌がこぞってクラシック映画特集をやっていました。まさに映画が社会で最もチヤホヤされていた時期だったと思いますが、僕は良い時期に映画を好きになったものです。お陰様で、新作からクラシックまで、100年分の情報を一度に吸収することになり、僕は時代を選ばない映画ファンになりました。
「スクリーン」と「FLIX」では何度か投稿して載せてもらったこともありました。ゲーム雑誌には100通出しても一通も載せてもらえなかったのに、「スクリーン」ではかなりの確率で載せてもらっていたので、大きな自信につながりました。このとき初めて自分の文章が活字になる喜びを知りました。

 

「スクリーン」を読んでいて、一番感銘を受けたのは「ぼくの採点表」でした。映画評論家の双葉十三郎先生がたった一人で公開中のあらゆる映画を点数付きで批評していて、「これはすごい!」と思いました。僕はチャップリンの「殺人狂時代」を初めて見たとき、その良さがまるで分かりませんでしたが、レーザーディスクに入っていた双葉先生の解説を読んでから映画をもう一度見直してみると、ストーリーが手に取るように分かりました。映画なんて、見方次第で駄作にもなれば傑作になるんだなあと一人で興奮してました。双葉先生の「殺人狂時代」の解説文が、僕の映画人生の原点だったといっても過言ではありません。だから僕の生涯のベスト・ワンは「殺人狂時代」です。僕も双葉先生みたいな何でも評論する映画評論家になろうと決心して、映画を見た後は必ず感想を書くようにしました。僕の映画評論は双葉先生の真似事から始まったのです。

 

映画に目覚めてからというもの、まだ福岡で学生生活を送っていた僕は一日に2本ペースでクラシック映画を見まくりました。周りには映画好きな人は一人もおらず、僕は完全に独学で映画について学ばなければなりませんでした。この頃手に入れた「大アンケートによる洋画ベスト150」(文芸春秋)と「ぴあシネマクラブ」(ぴあ)は僕の教典になりました。ボロボロになるほど何度も何度も読んでいました。俳優と監督の名前も自然と覚えました。幸い、福岡の天神地下街にUXプラザ(現在は閉店したらしいです)という素晴らしいレンタルビデオ店がありまして、ここでは「洋画ベスト150」で取り上げてあるほとんどの映画を見付けることができました。しかもレンタル料金は安く、1万円分の金券が7000円で売ってあったし、5本借りて1000円というサービスもやっていて、さらに「タウン情報ふくおか」という雑誌に必ず無料クーポン券をつけてくれてたので、学生にはありがたいお店でした。僕は週に1・2回はここに来て、じっくりビデオを選んでいたものです。そして僕は決まって必ず20本くらい借りて帰るのでした。だから僕のバッグは常にビデオテープでパンパンに張ってました。重い荷物を担いでいたせいか、急に筋肉がついてきて、運動神経も突如と発達しました。
ちなみに、この頃は映画館にはほとんど行ったことがありません。ビデオと衛星放送だけで年間700本は見ていたでしょう。今では真似できない芸当です。福岡にいた当時は年頃であるにも関わらず、女の子に恋してませんでした。青春のすべてを映画に使ってしまったのです。あぁもったいない。僕は映画に恋していたのですね。

次週「僕の映画生活・奮闘記」へ続く・・・

2004年8月29日