第3回「僕の映画生活・奮闘記」(連載5回) 先週号はこちら

 双葉先生に影響されて書き始めて映画本は気が付くと1000ページを超えていました(最終的には3000ページに膨れあがりました)。ジャンル関係なしに色々な映画を取り上げていましたが、とくにハリウッドの40年代から50年代の映画は気に入ってました。この頃感銘を受けたのは「素晴らしき哉、人生!」「黄金」でした。この2本で映画とは人生を映す鏡だということを学びました。もちろんイングマール・ベルイマンフリッツ・ラングといったヨーロッパの監督の作品も好きでした。僕は分厚い映画本を、毎日バッグの中に入れて持ち歩いていて、いつも友人に見せびらかしていました。これを売り込んで、雑誌記者になろうと思っていたのです。実際頑張って行動したこともあり、この本片手に「映画の天才」として深夜番組(全国放送)にゲスト出演したこともありました。一度水野晴郎さんに突撃で見せたこともありましたが、冷たくあしらわれて、現実は厳しいと思いました。学校の先生に頼んで、授業時間を借りて、自分で編集した映画のドキュメンタリーを、僕の解説付きで上映したこともありました。学校のみんなに自作のパンフレットをコピーして配ったりしていました。この頃の僕は社会常識を全く知らない大馬鹿者でしたが、一番燃えていたと思っています。
 ちなみに、僕が生まれて初めて批評した映画は「バリー・リンドン」でした。僕の映画本の1ページ目は「バリー・リンドン」から始まるのです。

僕が作った映画本上映会のお手製パンフレット

 

 僕が生まれて初めてやったバイトは、ヴィステーションという西日本の有名なレンタルビデオ店の店員でした。ビデオ店で働けば、新作映画をタダで見放題!?、そんなことを期待して始めた仕事なのに、そのような美味しい特典はなく、しかも店員はクーポン券を使ってはいけないというハンデ付きでした。残念。でも、店のポップ(広告)を書かせてもらったり、僕の手作りの名作ガイドをお客さんに配ったりして、それなりに楽しませてもらっていました。
 初めて自分で稼いだお金の多くはCDとレコードに消えていきました。音楽は、ゲーム・映画に次ぐ僕の第三の趣味です。音楽を好きになったきっかけは、双葉先生がある映画の批評で「音楽にはジャズを使うべきだった」と書いていたのを読んだこと。この一言で、映画を知るためには、映画だけじゃなく、映画以外のことも知らなければならないと思いました。僕が多趣味になったのはこの頃からで、絵画・演劇・建築・哲学書など、色々なものに興味を持ちました。例えば、音楽だけでも、クラシックからロック、ブルース、テクノまで、何でも聴いていました。視野を広げたことで、映画の見方もずいぶんと変わってきました。

ビデオショップで無料配布した名作ガイド僕が書いた洋楽の本僕が書いた邦楽の本

 

愛用のフィルムカメラ 映画が好きという思いが、ある線を越えてしまうと、たいていの人は映画を作りたくなってきます。そして、僕もそうなりました。映画監督になってやるぞという闘士が沸いてきたのです。ビデオカメラは持っていましたが、あくまでフィルムにこだわりました。当時はフィルムこそ映画だったからです。しかしフィルムカメラは当時から入手困難な状態でした。
 そんなある日、某雑誌に「レトロ通販」というお店の広告を見付けました。そこはフィルムカメラと映写機を今なお売り続けている、若き映画作家には大変ありがたいお店でした。僕は早速8mmフィルムのカメラと映写機をそこの通販で購入しました。フィルムカメラは、ビデオカメラに比べて、ずいぶんとお金のかかる機器ですが、撮影するとカタカタカタといかにも活動写真らしい音がするのが感動ものです。出演者や脚本家たちは、町の図書館やミュージアムで色々な人に声をかけて集めました。いくつかのドキュメンタリーやミュージック・クリップを撮りましたが、あまりにもくだらない内容だったので、とても人様に見せられるようなものじゃありません。
 ちなみに、僕が演出面で影響を受けた監督はフランソワ・トリュフォーとミケランジェロ・アントニオーニでした。いやはや雲の上の存在です。

 

 大バカ野郎だった僕は、一時期、南カリフォルニア大学に留学して、本気で映画について勉強しようかと考えていました。英語力といえば「ドリッピー」でかじったくらいです。まったく身の程知らずです。TOEFLの点数が足りず、経済的な理由もあって、諦めましたが、せめてアメリカには一度行ってみたかったので、二ヶ月間放浪することにしました。僕は決めたらすぐに行動する男なので、まだ12月の真冬だったのに、金もろくに持たずにすぐに旅立ちました。アメリカでは毎日野宿していたので、2度も風邪をひいてしまい、孤独感に襲われる毎日で、散々な旅でしたが、アメリカの文化を沢山学ぶことができました。
 僕が見たアメリカは、映画の中で描かれているアメリカとは全く違っていました。ロス郊外には白人がまったくおらず、どこにいってもメキシコ人とアジア人と黒人だけで、僕は初日から4日の間、白人を見ることができませんでした。英語よりもスペイン語で会話している人の方が多かったです。初めて白人を見たのはカリフォルニア大学のキャンパス内でした。映画って嘘の世界なんだなぁと思いましたね。もちろんハリウッドにも行きましたが、そこはギフトショップと下着専門店と日本人観光客だけの町で、がっかりでした。
 町中では、4回も映画の撮影現場に出くわしましたが、そのたびにじっくりと見学させてもらいました。テレビ局でトーク番組の客席エキストラも経験しました。パラマウント・スタジオに車用のゲートから侵入したこともあります(警備手薄!)。コンクリートに見せかけたプラスチック製の壁のセットを目の当たりにして、一人興奮してました。
 ジェームズ・スチュアートの家にも行きました。足に巨大なマメを作って、やっと着いたのに、残念ながらジミーの家は取り壊されて空き地になっていました。僕は尊敬する名優の跡地で一晩野宿して、少しばかりの優越感に浸ったのでした。
 50日間の旅でしたが、野宿したことで、警察に3回捕まりました。本場のパトカーに乗ったのは僕の自慢の土産話になっています。あの頃の自分には自分で感心しますね。昔の自分を見習わなくちゃ。

次週「ホームページができるまで」へ続く・・・

2004年9月4日