週刊シネママガジンコラムWhat a Wonderful 映画人生!ホームページができるまで

第4回「ホームページができるまで」(連載5回) 先週号はこちら

 信じられないかもしれませんが、僕はアナログ人間でした(今もそうですが)。時計ももちろんアナログですし、CDよりもレコードの方が好きです。当時は電子メールすらチンプンカンプンだったので、雑誌「スクリーン」を通じて知り合った文通友達と回覧ノートをぐるぐる回しながら、楽しんでいました。
 僕がしばらくパソコンから離れている間に、Windowsが一大センセーションを起こし、インターネットは瞬く間に人々の生活と密着したものになっていきました。そんなことも知らずに、僕はのほほんと生活していましたが、ある日ドリームキャストというテレビゲームのネットワーク機能を使って、僕は初めてインターネットを体験しました。文通友達が始めたというホームページを見てみたのですが、驚きの連続でした。僕が今までわら半紙でやってきたことを、友達は電子的な画面の上でやっていたのです。東北にいる友達の文章を、大阪にいる僕が、自分の家にいながら読んでいることが、僕は最初冷静に理解できませんでした。インターネットはすごい! 友達のホームページのアクセスカウンターはすでに1万を超えていました。今まで回覧ノートでは十数人の人たちにしか自分の文書を見せることはできませんでしたが、インターネットでは1万人の人たちに見てもらえる!これはすごい! あのときの興奮は忘れられません。友達は、回覧ノートの僕の文章を気に入ってくれてて、僕にホームページを始めることを勧めてくれて、色々なアドバイスをしてくれました。彼女は僕にとっては姉貴みたいな存在でした。
 やがて、僕は岩窟王さんのページを発見します。彼はドリームキャストを使ってホームページ作りを始めた人でした。世の中にはすごい人もいるもんだと、感心しきりでした。かなりインスパイアされましたね。彼のホームページは僕にやる気を起こさせました。
 また、ヤフーマガジンで紹介されていた映画のホームページをいくつか見て、「自分ならもっとすごい映画のページを作れる」と思いました。だんだんと自信がわいてきました。もう作るしかありませんでした。

 

 僕はさっそくWindows PCとスキャナとホームページビルダーをローンで購入し、ホームページ制作を始めました。ある本に「ホームページで一番重要なことは更新すること」と書いてあったので、僕は毎週更新していくことにしました。当初企画していたのは、僕の好きな映画監督を一人ずつ紹介していくというものでしたが、アイデアを練っているうちに、内容が多岐に広がっていきました。
 期待と不安で胸がいっぱいでしたが、なんとか公開に踏み切りました。開設日は2000年2月7日。サイト名は思いつかず、とりあえずそのまんま「映画の情報サイト」としました。僕が昔書いた映画本が、スタンリー・キューブリックのページから始まっていたので、ホームページの方も縁起を担いで、キューブリックの特集から始めました。
 目指すところはただ一つ、「日本一の映画のホームページ」でした。本気も本気でした。ページを日本一有名にして、コネを作ろうと考えていたのです。やがて、これが映画雑誌「テレビタロウ」で紹介され、その機にアドレスが正式に「http://cinema-magazine.com/」となりました。「magazine」の部分は、僕が雑誌記者を目指していたことにちなみました。サイト名も、アドレスに合わせるため、2003年1月から「週刊シネママガジン」に変更しました。それから、ページ制作環境をWindowsからMacへ変更し、ソフトもDreamweaverに買い替えました。ホームページは、ますますパワーアップしていきました。
 僕が、ホームページを始めて得られたものは、友人でした。全国から沢山のネット友達ができました。自分と同い年で、似たような環境に育ち、同じような考えを持っている、かけがえのない無二の親友もできました。彼も「映画中毒者の手記」というホームページを公開しており、僕らは互いに影響しあうようになりました。かつて僕には映画のことで討論できる友達がいなかっただけに、彼はよき相談相手、よきライバルとなりました。

ホームページの前身過去のデザイン1過去のデザイン2過去のデザイン3過去のデザイン4

 

 このころ、平日夜間は家庭教師、土日はカメラマンをして飯にありついていました。カメラマンのバイトをやっていて、映画に通じる多くのことを学びました。僕にカメラを教えてくれた人は、「ミゾグチケンジ」さんでした。そう、日本映画の偉大なる巨匠と同じ名前です。溝口さんにはカメラの「精神」を学びました。構図とか技術的なことは少ししか教えてもらってません。溝口さんが言った一言「おまえはプロなんだから、素人と同じところから撮るな。地べたに寝そべって撮ってもいいじゃないか」には感動しました。これは僕の座右の銘になっています。素人とは違う切り口、プロとしての意地、この精神が、僕のホームページ作りにも影響を与えているといっても過言ではありません。
 カメラマンの職場では色々な人と知り合いました。みんな本当に関西らしい素晴らしい人たちでした。その中の一人が、「何かするなら東京へ行け。東京だけが違う。大阪も熊本も同じだが、東京だけが特別だ」と言いました。その一言がきっかけで僕は上京を決意しました。大阪を離れるとなると、大阪で連んでいた映画仲間たちとも別れなければなりません。これでもずいぶんと悩んだ方なのですが、僕は人生なめてかかってましたねえ。このとき現実の厳しさを知っていれば大阪にとどまったかもしれませんが、行かないことには一生後悔します。だから、何があっても東京にとどまる覚悟でした。

 

 大阪で連んでいた映画仲間の内の一人を紹介します。そいつは僕が生まれて初めて出会った「できる奴」でした。年齢は僕よりも1歳年下でしたが、僕がテレビゲームに熱中していたガキのころから、彼は映画に熱中していたのです。映画と共に人生を歩み、映画のウンチクは僕の十数倍は深かったでしょう。僕は彼を見て、初めて自分のちっぽけさに打ちひしがれてしまったわけです。それまで独学で映画を勉強してきた僕は、自分では映画のことなら何でも知っているつもりでしたが、彼と会ってからは、自分の知識が薄っぺらな偽物の知識であることにようやく気づかされました。彼は学校で映画を勉強していたので、現場のこともよく知っていました。彼と出会って、初めてノンリニア編集も覚えました。彼からは本当に色々なことを学ばせてもらいました。僕も大学で映画を勉強すればよかったなぁと後悔しましたし、彼のことが非常に羨ましかったです。また、彼の洞察力は鋭く、僕の文章が双葉十三郎似であることもすぐに勘づかれてしまいました。本当にすごい奴でした。いや、それとも単に僕の方が無能だったのか。たぶん向こうは僕のことをぺいぺいとしか思ってなかったでしょう。
 彼は大阪にとどまりましたが、僕は東京へ飛び立ちました。彼は最後に僕に激レアな映画のビデオをプレゼントしてくれました。彼とは将来業界で再会することを約束しておりますが、僕にとって、彼と渡り合うための決め手は、もはやホームページ以外にありませんでした。

次回、最終回「週刊シネママガジン舞台裏」へ続く・・・

2004年9月26日