「街の灯」は、映画好きのあなたなら、もうとっくに見た作品だと思うが、人生に一度は絶対に見なくちゃいけないこんなにも素晴らしい作品を、どうしてかまだ見てない変わり者のために、まずはストーリーを説明する。
「街の灯」は目が見えない花売り娘と浮浪者の恋を描いたロマンティック・コメディである。浮浪者は大金持ちの紳士を精一杯装って、娘のために一所懸命働いて尽くし、娘もそんな彼に恋心を抱く。しかし、ある日、浮浪者は娘の目を治療するために大金を盗み、逮捕されてしまう。月日が流れ、出所後、偶然二人は再会する。娘の目は治っていたが、この薄汚い浮浪者を見ても恋人だと気づくわけがない。哀れな浮浪者に小銭を恵んでやろうと、彼の手をとった時、娘の表情は変わる。「あなたでしたの?」・・・じっと見つめ合う二人の表情。
そこで映画は終わる。
僕自身の話になるが、高校3年までゲームデザイナーを目指すオタク少年だった僕が、なぜ急に映画ファンになったのか。その原点はこの「街の灯」にある。「街の灯」を初めて見たのは小学生の頃だが、17歳になって再びこの映画と再会したとき、僕はすっかりチャップリンに恋してしまった。チャップリンのことを調べているうちに、映画っていいなぁと思うようになって、興味を持ち始めた。その頃ちょうど映画100周年記念と騒がれていた時期だったので、いきなり100年分の情報が、僕の前にドッと押し寄せてきたからもう大変だ。あの日から、僕の映画ファン歴は今年2004年で丸10年ということになる。「街の灯」を見るたびに僕は高校時代の初心に返る。これからもそうだろう。僕にとって最初の映画体験といえる「街の灯」は何よりも大切な作品である。
10年前、まだ映画を見る目が誰よりも乏しかったバカ学生の僕が、このラスト・シーンの本当の意味など知るよしもなく、当時の感想は「あの紳士は実は僕だったんだよ。どんなもんだい。目が治って良かったね。チャンチャン」なんて浅はかなものだったが、今一度、この「街の灯」を見直してみると、10年前には気づかなかったこの映画の良さがやっとわかったような気がする。この胸締め付けられるラスト・シーンは、およそ存在するすべての映画の中でも最も素晴らしい名場面だ。このラスト・シーンには映画のすべて、人生のすべてがつまっている。映画が見終わった後も、いつまでも頭の中に余韻が残る。素晴らしいのは、ここで観客に意味を考えさせることだ。
あなたが男性ならば、無意識に浮浪者の気持ちになって色々なことを想像するであろうし、あなたが女性ならば、花売り娘の気持ちになって考えるだろう。価値観次第で、ハッピー・エンディングになれば、悲劇的ラストにもなる。
たとえば男の気持ちからすると、こんな考え方もある。彼女が目の前に現れたとき、そのまま逃げれば何事もなかったろうに、立ち止まってしまった複雑な心境と、人一倍プライドが高いのに、自分のみすぼらしい姿を見られてしまった悔しさ。でも、目が治って良かった。僕は本当はこんなダメ男だったんだよと、はにかみ笑顔をつくって、現実ってそんなもんだよと開き直った感もある。彼女は今日から新しい人生をスタートすればいい。僕は彼女の前から消えるまでだ。ちょっぴり未練はあるけど、もう会わない。
女性の気持ちはどうだろう。「あなたでしたの?」という字幕が出るが、サイレント映画なので、発音のニュアンスはわからない。英語ではただの「You?」だ。観客はどういう意味の「You?」を想像しただろうか。あの人が現れる日を、心待ちにしていたことは間違いないが、頭の中で想像していた白馬の王子様の綺麗な思い出を、現実が一瞬で破壊してしまった。夢を砕かれた恨みもあったろう。失望も困惑もあったろう。申し訳なくも思ったろう。どうして私の前に現れたの? なぜ突然。私はどうすればいいの? いつまでも心の中にあった幸福感はなくなり、人生観も変わる。しかしこの出来事が彼女にとって大きな成長を意味する。
ラスト・シーン以外にも拳闘シーンなど、素晴らしいシーンはいくらでもあるが、なんと言ってもラストが一番だ。単純な映像にして、なんと複雑な内容だろうか。淀川長治氏が映画を褒めるときによく言っていた「感覚が良い」とはこのことだろう。奇跡的な名場面だが、しかし記録を見てみると、チャップリンはこのラスト・シーンを頭の中ですべて企画だてて作りあげていることがわかる。チャップリンは本当の天才だ。
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