「イワン雷帝」で最も印象的なコンポジションは「3の構図」である。つまり、エイゼンシュテインはしばしば「3」という数字を意識して人物を配置したのである。だから3人がフレームに入った映像が多く、また、三角形を形成している構図も多い。先程の馬の映像も「3の構図」である。三角形であればシンメトリーの構図も形成できるし、映像に無駄な余白がなく、フレームが締まる。「イワン雷帝」の構図は、映画言語の考えられる最も理想的なバランスを持ったコンポジションによって建築されているといえるだろう。本作は演劇的という批判もあるが、この「3の構図」は映画のフレームだから成し得るものだということを忘れてはならない。
右上の写真。何か書類を手渡しするショット(3)を見ても、そこに三角形が形成されていることがわかる。先生はここで画面右手の男の手が、実生活ではありえない格好をしていることを指摘している。普通ならこういう風には物を受け取らないが、映画言語としてはOKだという。波を描くような手の動きや、動物のようなジェスチャー。先生は、映画言語においては、俳優の動きに、リアリズムを取り入れてはいけないと説明する。抽象を持ってきて、抽象から現実を表現することが、映画言語の醍醐味であって、映画の動きは、文学と同じではダメで、あくまで映画的言語で作らなければならない。エイゼンシュテインの映画は、まさしく映画言語だけで作られた映画ということになる。
エイゼンシュテインの映画の俳優の動きは、どれも計算されているように見える。イワン雷帝が教会に入っていくシーン(4)では、イワンのセリフと入れ替わるように音楽が消えていき、イワンが前に進むと同時にカメラが後退する。それから後ろの2人(イワンを入れて3人の構図になる)が前に歩み寄ることで、イワンの姿をさらに押し出すように表現している。
先生は、動きの強弱も、前後のシーンにきちんと関連していると説く。ゆったりした動きの後に、早い動きを見せれば、それだけで強調になるのである。
僕がこの日最も関心を持ったのは、アメリカ映画の対話シーンと、エイゼンシュテインの対話シーンの比較である。アメリカでは肩なめショット同士で二人の対話を表現する手法が杓子定規のように使い回されているが、先生は決まり切った演出を真似るのはつまらないことだと吐き、エイゼンシュテインの対話シーン(5)を黙って生徒達に見せた。先生はこれに何も説明を加えなかったが、三角形のコンポジションを取り入れたこのシーンのカメラワークの独創性は、それだけで十分に訴えかけるものがあった。
|
|
(3)実生活にはないジェスチャー
(4)計算されたコンポジション
(5)対話シーンの工夫
|