ここ数年のニコール・キッドマンは素晴らしい。10年前よりも綺麗になったし、出る映画のすべてが当たっているような気がする。その中でも僕がプッシュしたいのは「ドッグヴィル」である。鬼才ラース・フォン・トリアーによる寓話的な愛憎ドラマだ。ニコールには「ニコールにしか演じられない」と言わせるほどの才能があるが、この映画を見ると、なおさらそう思う。まさにニコールだからこそできた映画である。
ドッグヴィルとは山奥にある架空の小さな村の名前である。人口は20人くらい。まだアメリカに訪れたことのないトリアー監督が想像したアメリカ社会がそこに込められているという。その村にある日謎の美女ニコール・キッドマンがやってきて、村の仮の住人となる代わりに、村人たちのお手伝いをしなければならない状況になる。最初はその村の生活を楽しんでいるのだが、しだいにニコールと村人の関係は奇妙なものになっていく。
とにかくニコールが罪なほど美しい。村人たちも欲求を抑えることができなくなる。そりゃそうだろう。男一人の部屋に、お手伝いでこんなに綺麗な女の人が来るのだから、むらむらしない方が変である。この映画は、ニコールが村人たちに翻弄されていく様子を、丹念にじっくりと確実に描いていく。その過程が説得力のあるものなので、ぐいぐいと引き込まれ、3時間近い上映時間もほとんど苦にならない。グランド・ホテル形式の亜流ともいえるが、人物描写は見事の一言で、心理変化もわかりやすい。見ているこっちも「もうやめて・・・」と息苦しい気持ちになっていく内容である。しだいにその関係もエスカレートしていき、異常ともいえる展開になるが、ここら辺は実際に自分の目で確かめた方が良い。
この映画が話題を呼んだのは、セットがないことだ。家もなければ壁もない。太陽も照明の明るさで表現。ただスタジオの床に白線をひいて「トムの部屋」という風に文字を書いただけのミニマル・アートである。俳優達は見えないドアを開けた振りをして演技しなければならなかった。セットがないので、ドッグヴィルという村をひとつの共同体として強調し、人物像を際立たせることに成功している。
これを舞台劇のようだという人もいると思うが、そういうわけではない。カメラは縦横無尽に位置を変えていくし(真上からのショットもある)、ジャン・リュック・ゴダールのようなジャンプ・カットの手法も用いられている。最も重要なのは、Aさんの家の中を映しながらも、Bさんの家の様子まで見えてしまうということ。これはかつてなかった形式である。セットがないことで、密室が密室でなくなり、常に開けた構図で演出することができるのである。
最初はこの簡素な映像が異様に見えるが、見ているうちにすぐに慣れ、セットがないことなど忘れてのめり込んでしまうのだから不思議である。これを見ると、何をもってリアルというのか考えさせられる。本物そっくりのセットよりも、この映画のセットはもっとリアルに感じる。だから僕は逆説的ではあるが、これは究極のリアリズム主義だと思うのである。
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