第8回「歌舞伎座 日高川入相花王ほか」(舞台)

 先月生まれて初めて歌舞伎を見た。僕は映画を山ほど見ているのに、舞台に関してはまったくの初心者で、舞台を知らずして映画を語って良いのかと、正直疑問を感じ始めていた。歌舞伎を見れば、映画の本質を知るカギになるかもしれないとも思っていた。僕は熊本出身なのに馬刺しの味を知らないが、東京出身の人でも歌舞伎をまったく知らない人がいるに違いない。作曲家のシューマンは「自国の文学は知っておくべきだ」と言ったように、日本人ならばおよそ日本の文化を知っているべきだろう。日本人なのに歌舞伎を知らないのは恥ずかしい気もする。
 しかし僕にはわざわざ歌舞伎を見るほどの気力はなかった。そんなとき、きっかけは突然訪れた。僕が試写を見に行くために銀座へ行ったところ、試写室が満席で入れないことがあった。まるまる2時時間以上の時間が空いたので、せっかく銀座にいるのだから歌舞伎座で歌舞伎を見て帰ろうと思ったのである。試写室が満席だったのは不運だったが、僕はその不運を幸運に変えたかった。
 観賞料金はかなり高いに違いないと思っていたら、なんと700円から見られるではないか。予想に反して安すぎである。3幕見ても2500円程度だったので、僕は3幕分購入した。
 席は3階席だった。その客席の造形からして舞台劇を見ているぞという気持ちが高ぶった。隣の席は外国人。僕もまるで観光客の気分である。上演時間はサラリーマンの勤務時間帯と重なっているため、平日の客はおもに観光客のようだ。
 歌舞伎といえば、僕はドリフで加藤茶がカッといって渋い顔をして真似するコントしか記憶がなく、パロディという形でしか見たことがなかったので、本物の歌舞伎は、すべてが新鮮に見えた。今更ながら、歌舞伎の出演者が全員男で、セリフが歌になっているという当たり前のことを改めて意識させられた。なるほど。歌舞伎の「か」は歌と書くことを忘れていた。しかし、歌っている人は役者ではなく、横に座っている人で、つまりは吹き替えである。
 この日見た中で一番面白かったのは「日高川入相花王」という「道成寺」物の人形浄瑠璃。等身大の人形がダイナミックに動く。「道成寺」は川本喜八郎のアニメーションでだいたい内容を知っていたので楽しめた。これを見て、歌舞伎とは言い意味で極度に様式的な舞台だと実感した。リアルとはまったく別のもので、例えば人物の足音は、横にいる黒子が踏み板を叩いて音を出している。その音がちっとも本物ぽくなく、嘘っぽいところが良かった。だいたい黒子という存在そのものが興味深い。よく歌舞伎で使われる「カンカンカン」と鳴る有名な打楽器?も想像以上に音が大きくて、耳にキンとくるくらいだったが、これもいかにも様式的ではないか。
 簡素な舞台装置なので、3階席からもよく見えたが、オペラグラスを買ってみると、役者の顔の表情もはっきりと見えるようになった。オペラグラスを通して見た世界に感動したものだから、隣の外国人にも何度か貸して見せた。舞台劇はオペラグラスで見ると不思議と映画みたいに見えてしまう。舞台にはオペラグラスは必須である。
 イヤホンの解説も良かった。普通に見ていても味があるが、解説を聞くと表現の意味がよくわかる。役者の衣装が赤色に変わったとき、「赤い着物は怒りそのものを表します」と解説があり、思わずなるほどとうなってしまった。
 内容はどうやら喜劇のようで、お客さんは色々なところで笑っていたが、僕はなにがおかしくて笑っているのかよくわからず、歯がゆい思いもしたが、ただこの日、明治時代の庶民の気持ちを肌で感じた思いである。今が2005年であることを忘れさせてくれた点でも感慨深い。歌舞伎は時代劇以上に時代を感じさせてくれる。この文化は今後もぜひとも残していかなければならない。そのためには、我々が興味を持って見に行くべきである。間違っても外国人観光客の方がちゃきちゃきの江戸っ子よりも歌舞伎に興味があるなんて未来にならないようにしなければ。

歌舞伎座
▲歌舞伎座の外観(公式サイト)。いつまでも日本建築の伝統を守っていきましょう!

2005年11月20日