巨匠の歴史
 第31回

ロマン・ポランスキー
溢れる才能でポーランド映画界の枠からはみ出した監督
 


Roman Polanski (1933〜)
  ●少年時代は戦争を体験
 ポランスキーは名匠であるが、彼ほど辛い過去のある監督は他にはいまい。ポランスキーはユダヤ系のポーランド人で、7歳のときに家族と一緒に強制収容所にぶち込まれている。自分だけは脱走に成功するが、母は中で死ぬ。レジスタンスやワルシャワ蜂起の事件も体験。戦後に父と再会した。

●第一作が彼の運命を決めた
 二十歳になって役者としてポーランド映画界にデビュー。当時はアンジェイ・ワイダの作品に出演していた。55年からは短編映画を監督するようになり、映画学校でも話題になる。29歳にはようやく初の長編映画「水の中のナイフ」を手掛けた。これはベネチアなどで国際的な評価を獲得した。登場人物はたったの3人で舞台はヨットの上だけ、セリフもほとんど無いというシンプルな内容だったのだが、これがなぜだか目が離せない。彼の映画作りに対する姿勢がうかがえる。第一作にして彼はポーランド映画の歴史的名作を残すことになったのだ。

●国際的に活躍
 ポーランド語はもちろんのこと、英語、フランス語もぺらぺらであった彼はフランス、イギリス、アメリカと抵抗なく本拠地を移動している。どの国でも彼の作る映画は偉大であり、国際的に評価が高い。「反撥」、「袋小路」、「吸血鬼」はイギリスだが、いずれもポランスキーの最高傑作といっていい内容であった。ただしポーランドでの評価だけは低かったようで「イデオロギーがない」とののしられたこともある。63年に息苦しい社会主義国ポーランドを離れてから、彼は二度とその地に戻ることはなかった。

●愛妻を殺される
 映画史上最も悲惨なスキャンダル。アメリカで、ポランスキーの愛妻シャロン・テイトが、お腹の中の赤ちゃんと一緒に惨殺されてしまう。ポランスキーは絶望した。ポランスキーは、シャロンと暮らした日々が人生で最高に幸せだったと語る。ポランスキーはもうアメリカには住まないと吐いたが、シェイクスピア劇を血生臭いスタイルで仕上げた「マクベス」で復活。73年にはアメリカ市民権も申請し、74年にカラー映像のハードボイルド映画「チャイナタウン」が絶賛される。
 ポランスキーはとりわけ心理的恐怖映画を得意としており(処女作「水の中のナイフ」もそういう感じがしないでもない)、現在までにその手のホラー映画、サスペンス映画の傑作を次々と放っている。これも過去の悲しい記憶が反映しているのであろう。
 ちなみに、役者としてもなかなかで、「他人のそら似」に映画監督役でカメオ出演しているところが笑えた。
 フィルモグラフィ
62 水の中のナイフ
65 反撥
66 袋小路
67 吸血鬼
68 ローズマリーの赤ちゃん
ローズマリーの赤ちゃん
71 マクベス
72 欲望の館
74 チャイナタウン
76 テナント
79 テス
86 パイレーツ
88 フランティック
92 赤い航路
94 死と処女
99 ナインスゲート
02 戦場のピアニスト
05 オリバー・ツイスト
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