スタンリー・クレイマー
自ら監督になった異色プロデューサー
![]() Stanley Kramer (1913〜2001) |
●こうなりゃ自分が会社作るしかねえ クレイマーの映画人生はとても興味深い。彼の映画界に入るきっかけは、雑誌に寄稿した文章を20世紀フォックスのスカウトマンに読まれたことである。ここから同社のシナリオ・ライター研究生として採用されるのだが、結局は掃除番に落ちぶれ、他の人の10分の1の給料ももらえぬまま、クビになる。が、企画を書く楽しみを覚えたクレイマーはMGMに売り込み、今度は何とか編集見習いとして採用される。が、彼の企画は映画化されぬまま、三年間が経った。次に入社したのはコロンビアである。この会社でようやく自分の企画が売れたのだが、ところがここでも結局映画化はされず。この後、再びMGMに戻っているが、共同製作の仕事や、ラジオ番組の仕事などをするも、大した評価は得られず。こうなったら自分がプロデュースするしかないと悟ったクレイマーは、47年自分でプロダクションを設立。「チャンピオン」などを製作して、これが見事大当たり。カーク・ダグラス、ディミトリ・ティオムキンといった偉大な人物も発掘して、「シラノ・ド・ベルジュラック」でホセ・フェラー、「真昼の決闘」でゲイリー・クーパーにオスカーをもたらすなど、絶好調の仕事ぶりを見せつけた。 ●プロデュースだけじゃ物足りねえ もともと映画作りに大変な興味を持つものだから、プロデュースだけでは物足りないと感じたクレイマーは、自ら監督業に躍り出た。55年からは自分のプロデュース作品は、すべて自分がメガホンをとっている。これは極めて稀なケースだ。 ![]() |
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