カトリーヌ・ドヌーブ

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カトリーヌ・ドヌーブ  

 当サイトでは、何週か前に「世界一美しい女優」としてヴィヴィアン・リーを紹介したが、その意見に反発のメールを寄せてきたのがドヌーブ・ファンの方々だ。「いやいややっぱり世界一の美女はドヌーブですよ」。たしかに、名声の高さから言えばドヌーブが遙かに上である。おっと、ここでヴィヴィアンと比較するのは失礼にもほどがあるね。

 プロフィール。中学時代から映画一筋の生活を続け、ロジェ・バディム、トリュフォーら名高い監督の作品に出演、とにかく出る映画はすべて傑作揃いだ。今まで彼女が業界でやってきたこともとんでもないことばかりだし(あげれば切りがないのでここでは書かない)、演技派としても世界一の実力派といわれる国際的ビッグ・スターである。もちろん現在も第一線で活躍中。妖しい美貌は衰えることはない。大袈裟だが、映画の歴史はドヌーブの歴史である。

 日本での人気はミュージカル「シェルブールの雨傘」(64)がきっかけだと思う。ダイナミックなハリウッド製ミュージカルとはまったく違うメランコリーなアプローチがヒット。あの有名な音楽以上に、ドヌーブの美貌が作品を支えていた。ただし、ドヌーブのセリフはすべて吹き替えで、彼女の生の声を聞くことができなかったのは今思うと残念である。

 続くは「反溌」(65)。彼女が演じた役は、セックスに嫌悪感を抱く少女。しだいに狂っていく役で、可愛い顔して恐ろしかった。ここからドヌーヴは女性の心の奥の愛憎・欲望などを表情・物腰だけで体現することを得意とし、性格女優を兼ね備えた希有の美形スターとして、女優人生をばく進していくことになる。実に幸運なスタートであった。

 60年代後期は彼女のキャリアの中でももっとも傑作に恵まれた時期であり、彼女の人気がアメリカでも高まってきた頃だ。「世界最高の美女」という肩書きがついたのもその頃。あの濃厚な二重まぶたが男の視線を吸い込んでしまうのである。ドヌーブは退廃・背徳・官能といった言葉の似合う魔性の美女として、異才ブニュエルの「昼顔」(66)、「哀しみのトリスターナ」(70)などに出演(ブニュエルとの出会いを抜きにしてドヌーブの映画は語れない)。

  ドヌーブを見ていると、ただただフランス女優の強さというのを思い知らされるばかりである。ドヌーブの役柄が負のイメージだからだろうか?
 
性格型の役を演じ続けてきたドヌーブは、まさに映画女優らしき映画女優であった。彼女は、フランス女優、そして全世界の映画女優の象徴である。ちょっと褒めすぎ?

 

相手は普通のお客さん

 映画監督を夢見る若き映像作家のタマゴたちのほとんどは勘違いをしている。
 「いい映画は芸術的センスさえあればいい」
 「批評家をうならせる映画を作ってみせる」
 そんな気持ちで映画を作っている。ちょっと高尚な芸術家を気取りすぎてないかい? 青二才・インテリというあだ名がピッタリだ。

 映画は感性だけでは撮れない。
 もし撮れたとしても、それは紛れであり、二度や三度は続かない。
 それと、あくまで映画を見るのは普通のお客さんだ。批評家受けを狙ったところで、一般層が楽しめなければ真の傑作とはいえない。

 若い人は、よく芸術的な作品を作ろうとして、美的カットをいっぱい見せつけようとするが、ただ美しいだけの映像ばかりでは、観客は5分と見てくれない。
 アーティスティックな映像を並べたところで、それは単なる写真の集まりでしかなく、お世辞にも面白い映画とは言えない。

 自分でも芸術的と思えるカットが撮れたから、このカットは残しておこうとか、このカットは他のカットの5倍も手間がかかったから、もっと長く見せようとか、そういうのは青二才の自己陶酔以外の何でもない。自信を持つことは大切だが、うまいカットが撮れただけで自分に才能があると勘違いするのはナンセンスだ。
 自己陶酔は、良い作品を作るための敵なのである。

 アクション映画を作りたいからアクション映画しか見ない人がいる。前衛的な映画を撮りたいからといって芸術映画ばかりにこだわる人がいる。そして、映画監督(映画評論家でも同じことだ)になりたくて、映画だけをひたすら研究している人がいる・・・。
 彼らはいわゆるマニア・オタクの部類に入る特別な人たちであるが、彼らが「普通のお客さん」の存在を忘れてしまっているのは惜しいことである。

 映画制作にせよ、映画批評にせよ、見る(読む)人はあくまで普通の人だということ。それが今回のコラムのテーマである。
 今回のコラムは、僕自身に対しての戒めとして書かせてもらいました。

(2002/02/17)


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