週刊シネママガジン作品紹介レビューたそがれ清兵衛


 「男はつらいよ」シリーズを通して、現在までに山田洋次監督が追求してきたものは、誰の心にもあるエゴイズムを描出することだと僕は思っている。この映画の主人公たそがれは、平の侍である。平、つまりはふつうの人。ここがポイントである。ふつうだからこそ、多くの観客の共感を得ることができる。
 どんな人にも何かしら取り柄はあるものだが、それを周囲に自慢する機会は少なく、たいていの人は、取り柄を隠すことで自己陶酔(とうすい)している。たそがれも我々と同類である。たそがれは、自分では剣の腕にちょっとは自信があるが、他人の前ではそれを見せない。爪を隠しているのではなく、人に見せるだけの勇気がないのである。
 ひょんなことから、剣の腕を人前に見せつける機会を得たたそがれは、ここぞとばかり意気込んで、棒きれで敵を打ちのめす。人を殺すのが怖いからというよりも、自分の見栄のために棒きれを選んだのである。一部始終を見ていた友人には、この一件を誰にもしゃべらないように頼むが、内心はこの雄姿を言いふらして欲しいと期待している。これは、山田お得意の演出法で、言っていることと心の中とが反対になっているのである。この意味においては、たそがれも車寅次郎と同じく偽善的なダーク・ヒーローなのであるが、このナルシシズムこそが俗人らしさであり、味であって、観客の感情移入へとつながるのである。
 たそがれの剣の腕は、自分の思惑どおり口コミで町中に広がる。たそがれは自分の噂について、さも無関心を装うが、単にうれしさを面に出していないだけである。噂はついに意中の女の耳にも届くが、話題がふくらみすぎて、藩命(はんめい)を背負う羽目になるとは、当人まったくの計算外であった。才能を過大評価されて成り上がったたそがれは、自分の本当の才能の低さに嘆くことになる。
 決闘を前にして、意中の女に求婚するあたりも、一番自分にとって格好の良いタイミングを選んだナルシスト的な人間性と、自分がまるで不幸の主人公になったように装って、相手にノーと言わせないエゴイスト的な人間性が同居している。求婚を断られて、素直に身を引く一面も、自分を美化しているに過ぎない。
 決闘前の結髪(けっぱつ)のとき、あえて髭を剃り落とさなかったのは、自分の怖じ気づいた顔を隠したいからだろうが、決闘場所が、狭くて暗い部屋の中とあれば、人々の視線をあびていた河岸での戦いとは打って変わり、誰も自分を見ていないので、見栄を張る必要もなくなる。ここで恐怖に震え上がる本当の姿を観客の前にさらけ出してしまうたそがれの表情は、作品一番のハイライトであろう。
 今までに数多くの映画を撮り続けてきた山田洋次監督にとって、これは初めての時代劇であったが、人間の普遍にあるエゴイズム、ナルシシズムを侍の精神にひっかけてまざまざと表現したそのスタイルは、むしろ現代劇よりもナチュラルである。
DVD

 

今週のスターNo.252 真田広之


Hiroyuki Sanada (1960-)

ハードボイルド・アクションからスラップスティック・コメディ、はたまたNHKの大河ドラマからトレンディものまで、積極的に芸域を広げている僕の憧れの人です。
当代一の人情喜劇作家山田洋次の腕にかかり、真田は良い意味で「ふつうの人」となった。俳優が映画の中でふつうの人を演じるのは、簡単なようで、実は非常に難しいことなのだが、英ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの舞台劇に日本人として初めて出演するほど演技力を認められている真田にとって、その壁は難なくクリアすることができた。米アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされた「たそがれ清兵衛」(02)における真田の役は、まるで現代日本のサラリーマンをもじったような、いかにも人間くさい平侍で、山田流の、言動と行動が反比例する演出スタイルは、真田の演技にもマッチし、そのキャラクターは、多くの観客の共感を獲得した。あえてボロを着て、非ハンサムを装うが、それなのになにやらかっこいい。
ゼナ、月桂冠のCMでも有名で、お茶の間での国民的支持率も高い。時代劇においては誰よりも定評があったため、アメリカ映画「ラスト・サムライ」(03)に抜擢されたのは当然だった。そういえば深作映画や「リング」(98)など、出演作品の多くが海外でも当たっている。こうなると評価はうなぎ登りなんじゃないか。このまま前進を続ければ、いずれは三船敏郎を超えるときがくる! その期待をこめて、僕はここに紹介しました。
DVDの検索

2004年3月6日