日本で大ヒットした作品だが、テレビ版抜きには語れない一本である。テレビの人気ドラマが、映画になるということで、縦横比4:3の画面が16:9になり、高画質のフィルム映像となった。スタッフはフィルム独特のアナログな質感をアピールし、日本のテレビドラマにありがちな時流にのったセリフを排除し、テレビとの差別化を図ろうとしている。織田裕二はどちらかというと毎秒24コマの映像が似合う男だが、青島役ばかりは「お茶の間のヒーロー」といったようすで、映画館でみると、スクリーンの大きさに根負けして、多少違和感もある。しかし青島役の存在なくしてはこの作品は成り立たない。
青島という役柄は、アメリカ映画のクールでダーティな刑事を微塵も想像させず、徹夜仕事でへとへとになったり、上役にしかられるような、いかにも頼りない、しごくありふれた日本市民である。でも本気になるとかっこいい。そこが我々に親近感を覚えさせる。テレビという業界は、視聴者と親密な関係を築いていなければ成功しないゆえ、青島がこのような人間像になったのは、考えてみれば必然である。
ストーリーは大袈裟に飾りこまれたフィクションである。都合良くできすぎた展開が、いかにもこれが作り物であることを意識させる。金をかけ、物語を強引に膨らまし、なんとかして「映画」を真似しようとしている。この「なんちゃって」な「映画」という別世界の中に、お茶の間のスター青島が放り込まれる。そこから本作のユーモアは生まれる。
たとえば、拘束衣を着せられた女犯罪者が青島と会話をするシーン。ここの舞台は、警察署の中とは思えないほどデコレートしてあるセットである。蛍光灯は下から灯され、なにやら前衛アートのような映像である。そこが本作の「映画」らしい演出である。しかし青島の態度は、いたって私生活的で、テレビ的だ。映画的な芝居をするシリーズの部外者・小泉今日子と、テレビ的な芝居をするお茶の間のスター織田裕二の共演は、映画とテレビが別物であることを再確認させてくれる。
ラストあたりで、青島はご都合主義の成り行きに流されて、傷を負う。その瞬間から織田裕二の芝居がいきなりクサくなり、映画的な演技になる。青島はお茶の間のスターなので、織田裕二が突然映画的な芝居を見せたところで、観客は納得してくれない。ここのシーンは、お涙頂戴のシーンになりきれずに不発する。しかし、その後、青島が大きなイビキ声を聞かせ、その不満を解消してくれる。イビキをかくことで、青島のテレビ的親近感が再びよみがえり、観客をホッと安心させる。このイビキは、本作のハイライトである。
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