■詰めこみすぎたせいで進行が早くなりすぎた ベストセラーの映画化作品。原作はどうしたらあれだけ売れるのかと、興味があったが、むしろお伽話の流れをくんだ模範的な幻想映画であることに驚いた。ホウキに乗って空を飛び、杖を使って呪文を唱える。魔法の物語の万人に知られた当たり前のルールが絶対になっている。この流派を一流というか亜流というかは個人の好みによるが、ファンタジーに順応できない人にとっては、本作は刺激が足りないかもしれない。 映画的なポイントについて書くと、やはり映画単体として少し内容が弱すぎる。ベストセラーなのだから、原作との関係は切り離すわけにはいかない。原作に書かれてあることは色々見せたい。しかし映画は2時間ぐらいに抑えなければならない。その葛藤にうち勝つことが、シナリオの善し悪しを決める要因のひとつだが、残念なことに、本作は色々詰め込んでしまったせいで、シーンの進行具合が少しばかり早くなってしまった。1シーンの内容も薄く、今ひとつ展開に冴えがない。後半の逆転も説得力に欠ける。 クライマックスらしきクイディッチのシーンは、最初は良い感じだが、邪魔が入るタイミングが早すぎるため、今ひとつ爽快感が足りない。 番犬のいる部屋に入ってからの一幕については、いきなり根っこに飲み込まれそうになるが、「リラックスして」といってすぐに危機から脱出、その後「太陽に弱い」といって光を浴びせて簡単にやっつける。味気なく、ピンとこない。意味をなさず、あっても無くても変わりない一幕である。 つまり、原作ファンの期待に応えようとしたことが仇となったわけだ。本作はストーリーそのものは非常に怖いものなのだと思うので、もっと的を絞って、大切な場面を膨らませておけば面白くできたのではないだろうか。せっかくラストは上手くできているんだから、実に惜しいことである。 ついでに書くが、セリフの意味を極力説明していないところに感心。「マグル」は「人間」という意味だと思うが、最後までその意味は説明しておらず、観客の想像任せである。「クイディッチ」、「シーカー」という言葉も、セリフを使っている始めのうちはそれが何のことなのかを説明しない。先に興味を突き付けて観客を惹きつけているのである。これも進行が早くなったことが原因しているのか、いないのか・・・。
■映像よりも物を語る「説明型」音楽に注意 この映画を見ていて、僕が最も感銘を受けたのは音楽である。本作における音楽はナレーターのような存在であり、作品に深く結びついている。音楽を担当したのはドラマチックな曲を作らせて右に出る者はいないジョン・ウィリアムズ。彼の奏でるオーケストラ音楽をもってハリウッドの強大さを知ってもらいたい。 本作では全編に渡ってウィリアムズのファンタジックな楽曲が使われている。ひとつの曲が終了しても30秒もたたぬうちにまた次の曲が始まる。他の映画のように場面が変わってから曲が途中で止むこともなく、本作では場面が変わっても曲は流れ続け、様々な楽器が風の音や水の音を奏で、それがある種の効果音となり、音楽そのものが物語となる。 BGMの性質にも色々な分類があるが、ウィリアムズの曲はさながら「説明型」音楽。映像が明るければ音楽も明るく、映像が暗ければ音楽も暗い。ウィリアムズの曲に芸があるのは、音楽が映像以上に感情を高揚させていること。これはオペラにも通じる手法である。ストーリーと映像だけでは観客の第六感を刺激することは難しいが、ウィリアムズの曲は第六感に響くのである。 森で悪玉を発見する場面をとってみても、オーケストラが絶えず主人公の感情を強調していることがわかる。得体の知れぬ化け物を見たときの驚きと疑問・恐怖、命を助けられてからの安心と決意。そういったファジィな感情の変化をウィリアムズはなめらかに曲調・テンポを変化させながらライブ感覚で説明していく。チェスのシーケンスに見応えがあるのは、スリリングな打楽器のリズムがしっかり観客の心を掴んで放さないからなのである。 なお、こういった音楽表現は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などでも見られる。ハリウッドの娯楽大作だからこそできる贅沢な表現技法のひとつである。ヨーロッパ映画の場合、映像と音声は反対のことを表現していることが多いが、素直に映像と音楽がシンクロする「ハリー・ポッター」は良くも悪くもハリウッド色に染まっているようである(最近の僕は「ハリウッド」にこだわってばかりですね〜)。 |
|
|
|