ベルトルッチ(1941-)は、ゴダールの映画を見て大いにショックを受け、親友のパゾリーニと共に弱冠二十歳で映画界入りを果たす。同時に詩人としても文学賞を受賞していた彼が、「映画は詩だ」といったように、彼の作品は詩とは切り離せないものとなる。
デビュー当初は、積極的に実験映画の演出に励んでいたが、ヌーベルバーグの作家たちが映像表現の手段としての映画技法を模索していたのに対し、ベルトルッチはいかにして鑑賞者に映像を「感じさせる」かに苦悶していたことに意義がある。こうしてベルトルッチは、フランスのコクトー、ロシアのタルコフスキーと共に重要視される映像作家へと成長していく。
ベルトルッチの創り出す映像は、あまりにも美しい。「暗殺の森」の雪景色の暗殺シーン。ダンスホールで演舞するドミニク・サンダ。これほど鮮烈で美しく、詩的な映像があっただろうか。「暗殺の森」は世界各国で絶賛され、ベルトルッチの名声は保証された。このときすでにベルトルッチはイタリアにこだわらない無国籍的な映画監督となっていた。
「ランストタンゴ・イン・パリ」からはハリウッドの俳優を起用する。同作はサックスの官能的な音色と、マーロン・ブランドの存在感が圧倒的な位置を占める作品である。ブランドが、舌を出してネズミの死骸を食べるふりをするシーン。へべれけに酔ってレストランの中央に大の字に横たわるシーン。噛んでいたガムを口から出し、あとはただそこに立ちすくむしかなかったラストシーン。ブランドの芸術的ともいえる演技と、ベルトルッチが創り出す退廃的空間とがミクスされ、素晴らしい映像詩が誕生した。かつてこのようにハリウッドの演技美学とイタリアのデカダンス美学の融合を試みた監督はおらず、ベルトルッチは映画史に新機軸を打ち立てる。その挑戦は、5時間の大作「1900年」にも引き継がれる。
オリエンタル三部作といわれる「ラストエンペラー」以降の3作品では、映像を詩としてとらえる彼のスタイルが、東洋の神秘と相まって、さらに英語<ポピュラーだが、この上なく対極的な言語>を取り入れたことで、かつてない新しいエンターテインメントの創作に成功した。そのどん欲なる探求心。ベルトルッチの技のすごさは、別の芸術や他国の文化を、次々と吸収していくことなのだ。
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