B級映画を語るとき、誰がロジャー・コーマンを無視できようか。まさに<B級映画ラボ>の第一弾を飾るにふさわしい男。B級映画とはこの人のためにあるようなものだ。
54年に低コストの映画を量産するためのプロダクション会社を発足したコーマンは、今日まで無数のB級映画を発表(ほとんどが日本未公開)。一方で映画作家・映画俳優の卵たちを養成し、B級映画の可能性を広く認めさせた。B級映画作家の中には、出世してA級映画の監督になった者もいるが、コーマンは断じてA級映画に手を出さなかった。いや、ひょっとしたらB級が精一杯だったのかもしれないが。
怪奇小説、サイケデリックなどなど、コーマンが手がける作品は悪趣味なものばかり。ステキじゃありませんか。全米で拡大公開されているA級映画よりも、僕はよっぽどコーマンの作品の方に映画愛を感じちゃいます。
AIPの製作で、コーマンはポーの小説を一連のシリーズとして映画化しているが、その最初の作品がこの「アッシャー家の惨劇」である。先に言うと駄作なのだが、随所にコーマンの努力の跡が見られ、ここまでくると愛さずにはいられない。
舞台となる場所は一軒の不気味な屋敷だけ。登場人物はたったの4人。屋敷に訪れた部外者の恐怖体験を描く、よくあるヘルハウスものの基本型だが、僕はこういうシチュエーションは大好きである。
撮影は本格的。編集も悪くない。それなのに、なぜだろう、この全編に漂うシロウト臭さは! 音響の臨場感が乏しいこともあり、もろにスタジオを意識させる。「映画らしさ」を意識させると言い換えれば語弊がないか。
主演のヴィンセント・プライスは天才的大根である。独りよがりを貫いたのか、まるで小説を朗読しているかのごとき演技である。わざとらしいが、その美声が醸し出す濃厚なムードはたまらなく魅力的である。コーマンは恐怖シーンのほとんどをプライスの一人芝居に委ねているが、このヘタウマぶりは圧巻である。
本作で問題にしたいのは、コーマンがなんとかして観客を驚かそうと奮闘しているようすが伝わること。一流の監督がホラー映画を手がけるとき、たいていは作家性を出すために、幻想的・美学的に作ろうとするものであるが、コーマンはあくまでホラーを見世物として、商品的に作っているのである。ジャンルの本質をそのままシンプルにパッケージすること、すなわちこれは「プログラム・ピクチャ」の本来の姿である。コーマンがB級映画の神様と崇められているゆえんはそこにある。
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